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習慣

ここのところ体の不調がつづいて、病院が苦手な自分にしてはかなり真面目に病院へ足を運んでいる。耳に違和感を覚え耳鼻科にかかるも、インターネットでいろいろ調べているうちに不安になり脳神経外科で検査を受けたり。騙し騙しやっているうちに痛みが強まってしまった右手首を診てもらってテーピングをすることになったり。そのほかもろもろ。来年で40歳である。それなりの慎重さを身につけたい。言葉が出てこないことも増えた気がする。「ベビーカー」と言いたくて「乳母車」と言ったり、「財テク」が出てこなくて「金策」と言ったり。話は変わってしまうが、本のタイトルに「お金」が入るものがほんとうに多くなった。いつから、というのは分からないのだけれど、音羽館にいたころは感じなかったので2014年以降ではないか。 * 多分少なくないひとが感じていることだと思うのだけれど、昨今の筋力トレーニングの一大ブームにそれほど肯定的な気持ちになれないでいる。個人がより健康な、といえば聞こえはよいが、より働ける、より稼げる身体をもつことへと駆り立てられているようで、あまりに効率を重視する社会の一側面というように見える。とは言え、自分も最近筋肉が落ちてきているのを感じ、ジムに通うという選択肢が以前よりも脳裏をちらつく。そういうタイミングで自宅の引越しがあり、新居は職場からはすこし離れてしまったが、ちかくに市の体育館やプールがある。そういうことで、広告をたくさん出しているようなジムではないのだけれど、市の施設で自分のペースで体を動かすというのもよいかも知れないと思う。だいすきなオバケのQちゃんの美容体操を思い出す。 * そう考えているのがうまくいって、月に何度か市の体育館やプールで体を動かす習慣を持つことができたら、と思うとたのしい。最近習慣ということに興味がある。本を読んだりしてなにか魅力的なアイデアを知るということはもちろん大事だけれど、物理的にはなにも変わっていない自分の頭に目新しいアイデアがすっぽりと入ってくるということよりも、自分の体の動かしかた、日々の暮らしかたが、自分の自前のアイデアの材料になり、あるいは結果になる、ということを考えている。この話のつづきはそのうち。今は思いついたことをすこし。失われた習慣といえば、座席の決められていない映画館でスクリーンの大きさや客席の勾配を吟味しながら自分の...

国語の先生のこと

いわゆるファスト・ファッションではないもので男性用の下着を、通信販売ではなく実店舗で買おうとするとなかなかたいへんだという話。白ブリーフはいやだとか、ボクサー・パンツは好みではないとか言いはじめるとなおさら。吉祥寺の百貨店などでの男性用の下着の扱いは、多分ひとが思っているよりもとてもとても少ない。そういうふうに男性用下着さがしをしていたのは昨年のことで、空き時間や思い出したときにいろいろと見てまわっていたのだけれど、結局伊勢丹新宿店メンズ館の地下にひろびろとした男性用下着の売場があり、これと思えるものを何着か買うことができた。はじめに手にとったものが20,000円もして驚いたが、ふつうの値段のものもちゃんとあった。なんの話かと思われるかも知れないが、自分にとっては考えさせられることだった。 * 東京洋書会の事業部をはなれて最初の市場の日。早起きをしないで済むのがうれしい。東京洋書会というのは東京古書組合に加盟している古本屋の有志が運営している洋書に特化した「市場」で、この古本屋がよくいう「市場」というのは、組合に所属する古本屋たちがお互いに品物を出品して、競争入札で競り落とすことができる場のこと。洋書会は毎週火曜日に、古書会館の4階で市会をひらいている。事業部のしごとは洋書会の会員の持ち回りで、自分は昨年7月から今年6月まで。そういうことでこの日は店を開けてから均一の補充などをして、店員に店番をお願いして、神保町へ。とてものんびりやらせてもらえている気持ちになる。車中でもこころなしかリラックス。手持ちの本を読みすすめる。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)。 * 御茶ノ水に着くとちょうど昼過ぎで、そのまま歩くと洋書会の当番のみんながお弁当を食べているころに着いてしまいそうだと思い、自分も昼食をとることに。神保町にはごはん屋さんがたくさんあり、たくさんあるだけに迷いはじめると入る店が決められなくなる。それを回避するためというのでもないのだけれど、最近はなるべく外国人のひとがやっている店にしようと思っている。神保町に限らずどこでも、たとえばふたつの店で迷ったら、そう考えて決める。そうすると古書会館の裏の通りにある餃子屋がおいしくて量もあり、安い。すこし混んでいる時間で、カウンターの席にする。青椒肉絲の定食に餃子を三つつけてもらう。暑いの...

雑談

すこし前に読んだフィルムアート社の『クリティカル・ワード現代建築――社会を映し出す建築の100年史』が面白かった。モダニズム建築の時代から2010年代までの建築史的に重要な作品や固有名詞、鍵概念などを項目ごとに解説したもので、門外漢にははじめて知ること、聞くことが多くてためになった。建築物がどんどん巨大化して大がかりなものになっていくことに違和感を抱いたひとたちが、それに抗うための言説のなかでヒューマン・スケールということばをつかっていたというのが印象にのこる。空間における人間身体の大きさ、小ささを前提にした規模の建築の擁護ということだと思うが、これは大切なコンセプトなのではないか。空間においても、時間においても、精神的なことについても、ヒューマン・スケールということを意識していきたい、と思う。 * 昔話。学生のころ、研究で必要な洋書はアマゾンで購入するのが常だった。もちろん紀伊國屋書店やジュンク堂で洋書が買えることは知っていたが、少ない奨学金のなかから本代をだすとき、アマゾンは便利で助かった(大体の場合、やや安く、やや早く届く)。それでも洋書は注文してから届くまで2週間以上かかるときもあり、注文したときの「熱」が冷めたころに本が届き、微妙なきもちになるということもあった。ほんとうは欲しいわけではないものを欲しいと勘違いさせて買わせてしまうところがオンラインの購買行動には確かにあると思う。自分に必要な本は自分がいちばんわかっていて、そういう本はオンラインで買うことができるから実店舗の本屋は不要であるというひともいるが、実はこれは疑わしいのではないかとも。この話のつづきはまた。 * 近所のよくいく焼き鳥屋さんの値上げがすこしずつ財布に効いてきている。たぶん原材料の価格高騰やいろいろな要因があるのだと思う。コロナ禍のあいだもほぼ通常営業をしていたので、あのときは気持ち的にもずいぶん助けられた。値上げのことはあまり気にせずまた行きたいと思う。ふと、2020年に閉店してしまった自宅から近くにあったレストランのことを思い出す。とてもちいさなお店を、料理人のお兄さんがひとりで切り盛りしていた。ときどき賑わっていたものの空いていることも多かったが、おにいさんは料理の腕だけではなく雰囲気もよく、食事や彼とのやり取りのなかでいやな思いをしたことは一度もなかった。閉めら...

図鑑

5月は古書組合の市場のしごとが佳境。純粋な肉体労働の、行き帰りの電車で本を読むことでなにかを慰める。ウェンディ・ブラウンの『いかにして民主主義は失われていくのか』という本を読みはじめる。新自由主義を社会や政治、経済のシステムから説明するのではなく、人間のあり様の変化ということから考えていく。新自由主義のもとでは、ひとは常に自らをポートフォリオ化して競争にさらして、人間というよりも人的資本と呼べそうなものへと変わってしまう。自分は昔からよくSNSで読んでいる本のことを書いてきたのだけれど、うすうす気づいていながら気づかないふりをしてきたことでもあるが、まさに自分をポートフォリオ化して結果、新自由主義を駆動させる側に身をおいてきたのだと思う。 * すこし前のある水曜日。Yさんが成城学園にあるちいさな美術館へいくというので、ついていくことにした。成城学園で降りるのは十数年ぶり。駅から住宅街の道をいくと、画家の旧家が区に寄贈されたのだというちいさな美術館があらわれる。留学時代の具象の親密なふんいき、後年の抽象のうつくしさに惹かれる。展示会場は画家のアトリエであったようで、板張りの床に顔料が生み出した模様までが画家の作品のようで眺めて飽きなかった。美術館を出るとき、受付の方がふかく、ながくお辞儀をされたのがなぜか印象に残った。帰りの駅までの道は西日のまぶしいのを避けるためにまず南北の道を歩き、それでも東西の道を行かないと駅にはたどりつかないわけで、さいごは渋々西日を受けながら線路沿いを歩いた。 * その日はせっかく成城学園まで出たので、経堂の「ゆうらん古書店」へも行くことにした。ゆうらん古書店は昨年開店した古本屋で、古書組合でお世話になっているIさんの店だ。入口にむかって左側の大きなガラス窓には外側へむけて通行人にもみえるようにして様々な本が陳列されていた。文学や音楽に思いのあるひとがやっている店なのだと一目でわかる。たぶん10坪ほどの小ぶりな、そのぶんどこを見ても感じのよい本ばかりというすてきな古本屋。2000年代の前半、自分が古本屋通いをはじめたころの、どきどきわくわくするようなきもちを思い出しながら、ゆうらん古書店訪問のその後の日々を過ごしている。ジャスパー・ジョーンズの版画集と、学生のころに読んでいた古本屋ガイドを見つけて買った。 * 某日。図...