投稿

ある投稿欄

『青春』はワン・ビンによるドキュメンタリー映画で、中国の衣料品工場で働く出稼ぎの若者たちの姿を記録したもの。これはプロダクション・ノートの受け売りだけれど、上海を中心にした長江デルタはそこだけで日本のGDPをはるかに上回るほどの経済地域なのだそうで、ここでカメラを向けられている工場もその域内にある。朝から夜遅くまでミシンをかけ、服を束ね運び、工場長と一着あたりの工賃の交渉をする。短い自由な時間にはスマートフォンで音楽を聴いたり、すきな女の子をデートに誘ったり(女の子は必死で拒んだり)、そして疲れるとちいさなプライヴェートな空間に体を横たえる。ミシンの濁音とともに流れる200分の映像はどの瞬間も素晴らしかった。撮影期間の2014年から2019年という時間が、自分にとっての近過去の時間とも重なって。 * 学部時代、レンタルビデオ店でアルバイトをしていた。ミシェルさんは同じ大学の修士課程の学生で週に一度はシフトでいっしょになる。本がすきだと言うと、どういう本がすきなの、という話になり、ミシェルさんは絵を描くひとであったから、自分が読んだばかりの美術批評や映画の本のはなしを熱心に聞いては、楽しそうに相槌を打ったり、質問をしてくれたりした。質問されるとしっかり答えたいから、本も熱心に読むようになった。ミシェルさんにはなしを聞いてもらえることが本を読む動機づけの一部になるということが起きていたと思う。逆に、ミシェルさんから大学には学部のほかに大学院というところがあり、勉強をつづけたいひとがそこへ進むのだと教えてもらえたことは、そのまま自分の進路に影響をあたえた。2005年頃の話。 * 小中学生のころに読んでいたいわゆるティーン向けの映画雑誌には投稿欄があった。読者の映画の感想や誌面についての要望などが見開き二頁で掲載され、それぞれに編集部のお姉さんがコメントをする。あるとき『タイタニック』のケイト・ウィンスレットがぽっちゃりとした体型であることをユーモアをまじえて茶化す投稿があり、お姉さんもいっしょになり笑いを共有することがあった。翌月か翌々月に、その投稿をめぐるやり取りから、自分の体型もまた馬鹿にされているように感じられて傷ついた。そういうことを言うのはやめてほしい、という別のひとからの投稿があり、お姉さんが自分の言動の軽率さを認めて謝っていたのを覚えている。

習慣

ここのところ体の不調がつづいて、病院が苦手な自分にしてはかなり真面目に病院へ足を運んでいる。耳に違和感を覚え耳鼻科にかかるも、インターネットでいろいろ調べているうちに不安になり脳神経外科で検査を受けたり。騙し騙しやっているうちに痛みが強まってしまった右手首を診てもらってテーピングをすることになったり。そのほかもろもろ。来年で40歳である。それなりの慎重さを身につけたい。言葉が出てこないことも増えた気がする。「ベビーカー」と言いたくて「乳母車」と言ったり、「財テク」が出てこなくて「金策」と言ったり。話は変わってしまうが、本のタイトルに「お金」が入るものがほんとうに多くなった。いつから、というのは分からないのだけれど、音羽館にいたころは感じなかったので2014年以降ではないか。 * 多分少なくないひとが感じていることだと思うのだけれど、昨今の筋力トレーニングの一大ブームにそれほど肯定的な気持ちになれないでいる。個人がより健康な、といえば聞こえはよいが、より働ける、より稼げる身体をもつことへと駆り立てられているようで、あまりに効率を重視する社会の一側面というように見える。とは言え、自分も最近筋肉が落ちてきているのを感じ、ジムに通うという選択肢が以前よりも脳裏をちらつく。そういうタイミングで自宅の引越しがあり、新居は職場からはすこし離れてしまったが、ちかくに市の体育館やプールがある。そういうことで、広告をたくさん出しているようなジムではないのだけれど、市の施設で自分のペースで体を動かすというのもよいかも知れないと思う。だいすきなオバケのQちゃんの美容体操を思い出す。 * そう考えているのがうまくいって、月に何度か市の体育館やプールで体を動かす習慣を持つことができたら、と思うとたのしい。最近習慣ということに興味がある。本を読んだりしてなにか魅力的なアイデアを知るということはもちろん大事だけれど、物理的にはなにも変わっていない自分の頭に目新しいアイデアがすっぽりと入ってくるということよりも、自分の体の動かしかた、日々の暮らしかたが、自分の自前のアイデアの材料になり、あるいは結果になる、ということを考えている。この話のつづきはそのうち。今は思いついたことをすこし。失われた習慣といえば、座席の決められていない映画館でスクリーンの大きさや客席の勾配を吟味しながら自分の

国語の先生のこと

いわゆるファスト・ファッションではないもので男性用の下着を、通信販売ではなく実店舗で買おうとするとなかなかたいへんだという話。白ブリーフはいやだとか、ボクサー・パンツは好みではないとか言いはじめるとなおさら。吉祥寺の百貨店などでの男性用の下着の扱いは、多分ひとが思っているよりもとてもとても少ない。そういうふうに男性用下着さがしをしていたのは昨年のことで、空き時間や思い出したときにいろいろと見てまわっていたのだけれど、結局伊勢丹新宿店メンズ館の地下にひろびろとした男性用下着の売場があり、これと思えるものを何着か買うことができた。はじめに手にとったものが20,000円もして驚いたが、ふつうの値段のものもちゃんとあった。なんの話かと思われるかも知れないが、自分にとっては考えさせられることだった。 * 東京洋書会の事業部をはなれて最初の市場の日。早起きをしないで済むのがうれしい。東京洋書会というのは東京古書組合に加盟している古本屋の有志が運営している洋書に特化した「市場」で、この古本屋がよくいう「市場」というのは、組合に所属する古本屋たちがお互いに品物を出品して、競争入札で競り落とすことができる場のこと。洋書会は毎週火曜日に、古書会館の4階で市会をひらいている。事業部のしごとは洋書会の会員の持ち回りで、自分は昨年7月から今年6月まで。そういうことでこの日は店を開けてから均一の補充などをして、店員に店番をお願いして、神保町へ。とてものんびりやらせてもらえている気持ちになる。車中でもこころなしかリラックス。手持ちの本を読みすすめる。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)。 * 御茶ノ水に着くとちょうど昼過ぎで、そのまま歩くと洋書会の当番のみんながお弁当を食べているころに着いてしまいそうだと思い、自分も昼食をとることに。神保町にはごはん屋さんがたくさんあり、たくさんあるだけに迷いはじめると入る店が決められなくなる。それを回避するためというのでもないのだけれど、最近はなるべく外国人のひとがやっている店にしようと思っている。神保町に限らずどこでも、たとえばふたつの店で迷ったら、そう考えて決める。そうすると古書会館の裏の通りにある餃子屋がおいしくて量もあり、安い。すこし混んでいる時間で、カウンターの席にする。青椒肉絲の定食に餃子を三つつけてもらう。暑いの

雑談

すこし前に読んだフィルムアート社の『クリティカル・ワード現代建築――社会を映し出す建築の100年史』が面白かった。モダニズム建築の時代から2010年代までの建築史的に重要な作品や固有名詞、鍵概念などを項目ごとに解説したもので、門外漢にははじめて知ること、聞くことが多くてためになった。建築物がどんどん巨大化して大がかりなものになっていくことに違和感を抱いたひとたちが、それに抗うための言説のなかでヒューマン・スケールということばをつかっていたというのが印象にのこる。空間における人間身体の大きさ、小ささを前提にした規模の建築の擁護ということだと思うが、これは大切なコンセプトなのではないか。空間においても、時間においても、精神的なことについても、ヒューマン・スケールということを意識していきたい、と思う。 * 昔話。学生のころ、研究で必要な洋書はアマゾンで購入するのが常だった。もちろん紀伊國屋書店やジュンク堂で洋書が買えることは知っていたが、少ない奨学金のなかから本代をだすとき、アマゾンは便利で助かった(大体の場合、やや安く、やや早く届く)。それでも洋書は注文してから届くまで2週間以上かかるときもあり、注文したときの「熱」が冷めたころに本が届き、微妙なきもちになるということもあった。ほんとうは欲しいわけではないものを欲しいと勘違いさせて買わせてしまうところがオンラインの購買行動には確かにあると思う。自分に必要な本は自分がいちばんわかっていて、そういう本はオンラインで買うことができるから実店舗の本屋は不要であるというひともいるが、実はこれは疑わしいのではないかとも。この話のつづきはまた。 * 近所のよくいく焼き鳥屋さんの値上げがすこしずつ財布に効いてきている。たぶん原材料の価格高騰やいろいろな要因があるのだと思う。コロナ禍のあいだもほぼ通常営業をしていたので、あのときは気持ち的にもずいぶん助けられた。値上げのことはあまり気にせずまた行きたいと思う。ふと、2020年に閉店してしまった自宅から近くにあったレストランのことを思い出す。とてもちいさなお店を、料理人のお兄さんがひとりで切り盛りしていた。ときどき賑わっていたものの空いていることも多かったが、おにいさんは料理の腕だけではなく雰囲気もよく、食事や彼とのやり取りのなかでいやな思いをしたことは一度もなかった。閉めら