習慣

ここのところ体の不調がつづいて、病院が苦手な自分にしてはかなり真面目に病院へ足を運んでいる。耳に違和感を覚え耳鼻科にかかるも、インターネットでいろいろ調べているうちに不安になり脳神経外科で検査を受けたり。騙し騙しやっているうちに痛みが強まってしまった右手首を診てもらってテーピングをすることになったり。そのほかもろもろ。来年で40歳である。それなりの慎重さを身につけたい。言葉が出てこないことも増えた気がする。「ベビーカー」と言いたくて「乳母車」と言ったり、「財テク」が出てこなくて「金策」と言ったり。話は変わってしまうが、本のタイトルに「お金」が入るものがほんとうに多くなった。いつから、というのは分からないのだけれど、音羽館にいたころは感じなかったので2014年以降ではないか。


多分少なくないひとが感じていることだと思うのだけれど、昨今の筋力トレーニングの一大ブームにそれほど肯定的な気持ちになれないでいる。個人がより健康な、といえば聞こえはよいが、より働ける、より稼げる身体をもつことへと駆り立てられているようで、あまりに効率を重視する社会の一側面というように見える。とは言え、自分も最近筋肉が落ちてきているのを感じ、ジムに通うという選択肢が以前よりも脳裏をちらつく。そういうタイミングで自宅の引越しがあり、新居は職場からはすこし離れてしまったが、ちかくに市の体育館やプールがある。そういうことで、広告をたくさん出しているようなジムではないのだけれど、市の施設で自分のペースで体を動かすというのもよいかも知れないと思う。だいすきなオバケのQちゃんの美容体操を思い出す。


そう考えているのがうまくいって、月に何度か市の体育館やプールで体を動かす習慣を持つことができたら、と思うとたのしい。最近習慣ということに興味がある。本を読んだりしてなにか魅力的なアイデアを知るということはもちろん大事だけれど、物理的にはなにも変わっていない自分の頭に目新しいアイデアがすっぽりと入ってくるということよりも、自分の体の動かしかた、日々の暮らしかたが、自分の自前のアイデアの材料になり、あるいは結果になる、ということを考えている。この話のつづきはそのうち。今は思いついたことをすこし。失われた習慣といえば、座席の決められていない映画館でスクリーンの大きさや客席の勾配を吟味しながら自分の席をきめること。取り戻した習慣は、サブスクではなくCDで音楽をかけること。


習慣からの連想。朝起きて、コップ一杯の水をのむ。このコップを置くテーブルから住宅という建築について考えなさい、と誰かが誰かに言ったのだという。誰かが誰かに、というのがまったく思い出せない。雑誌の記事で読んだのだけれど。はじめに勤めた建築事務所では建築は外側から考えていくということを教えられ、その後に勤めることになった会社でその社主か先輩から言われたのがそのことばで、というインタビュー記事であったと思う。この朝の一杯の水、そのコップを置くテーブルから建築を考えなさいというのを、わたしはとても気に入っている。水の冷たさや温さ、コップの重み、テーブルに置くときの音、そのあとにつづく朝の忙しない動作によって分節化されてしまう前の、投げ出されたままのような部屋のイメージ。