鈴木一誌『ページと力』増補新版、青土社、2018年。

鈴木一誌『ページと力』増補新版、青土社、2018年。

著名なグラフィック・デザイナーでシネアストでもあった著者のさいしょの著作の増補版。折にふれて書かれてきた(語られてきた)ブックデザインについての批評的なことばと、『知恵蔵』のフォーマットの権利をめぐって朝日新聞社と争われたいわゆる「知恵蔵裁判」とそのまわりで紡がれた時事的な文章、対談をおさめたものだ。

冬のはじめに読み、それからすこし時間が経ち、それでもまだじぶんの気持ちがこの本といっしょにあるような、去りがたさのような読後感がまだある。なんども反芻して、我田引水もして、自分なりにパラフレーズもするなかで、もうこの一書をはなれてか、はなれずにか、自分のなかにもう一冊の異本がうまれたような感覚がある。

そういう意味で、これから書く感想のようなものは、基本的には誤読にもとづくもので、この本で書かれていることを正確なかたちで前提とはしていないもので、そういう風に読んでもらえたらと思う。

IT革命以降、書物や読書という文化が衰退していくなかで、OEDなどの権威ある辞典のなかでページという語やその派生語についての項目は増えつづけているという。それは、メディア環境の変化のなかでその輪郭が曖昧になっていく書く、編む、刷る、読む、などの営みに、特定の人格をもつわけではない旧い文化のようなものがどうにか輪郭をあたえようとしている作業なのかも知れない。菊地信義が装丁によって、輪郭を失いつつあった文学に枠をあたえていたように。

著者がその重要性をいう「ページネーション」という概念は、ひとつには頁にノンブルをふるという意味で、よりひろくは組版などの専門的な技術により、本を本たらしめるプロセスのことを差すのだと思う。引かれているなかでマクルーハンが言うには、グーテンベルクのさいしょの聖書にはノンブルがふられておらず、ノンブルがふられるまでには数十年の書物文化の推移があったのだそうだ。聖書という人間の文化を超えたものが、人間の文化へとおりてくるまでの数十年。

ページネーションは人間が世界を把握しようとする、近代的な生きものであろうとする仕方に関わっている。人生を頁の比喩で捉えようとする。歴史や世界を書物の比喩で捉えようとする。人間が自らの眼や手で把握することができるものとのあいだに抽象的なかたちでヴェールのようにあるメディアのようなものがページネーションだとも考えられるのではないか。ここで「近代的な」というとき、モダン・デザインということばが頭にうかぶ。

ウィリアム・モリスが目指したモダン・デザインは、聖書にノンブルをふることで、神の庇護をはなれて、ひとつの弱い肉体でもって生きていこうとした人間たちの時代の擁護ではなかったかと思う。近代の帰結であるはずの産業革命=資本主義は、その端緒に位置する人間が人間的であることを許さないような仕方で発展していく。そのなかでも人間の肉体が人間的であってほしい、その願いとしてのデザインを、モリスは考えたのではないか。

モダン・デザインは人間から出発して、同時代的には資本主義と並走することで、つねに矛盾しながら、よいものも、わるいものもたくさんつくってきた。矛盾の歴史は、しかしたとえば清濁あわせ呑むというアクロバットにより矛盾のふり幅をより小さく見積もられながら進展していくだろう。しかし矛盾は矛盾のまま存在する。そういう現実を、いまさまざまにデザインされているメディアに囲まれながら暮らしているわたしたちは見つめなければならないのではないか。

産業革命=資本主義の時代はシームレスにジェノサイド=資本主義の時代へと移行して、そこでデザインにはいったい何ができるのか。『ページと力』の著者は「とても絵になりそうにない」とつぶやく。デザインできないと。しかしそれは単純に消極的な諦念のことばではないのではないか。この時代に見合ったかたちでのデザインができないというより、デザインでこの時代と見合ってしまうことを自分に許すことができないという意思表示のように、わたしには思えた。

たとえば自分の古本屋の店づくりという「デザイン」も、販売プロセスにかかわる「デザイン」も、あまりにこの時代に見合ってしまっている。そのことがほんとうによいことなのか、ということを思う。古本屋の特殊さをはなれたところでも、自分自身の日常的なメディアの使いかた、生活必需品などの消費行動のありかた、家族や友人、仕事仲間とのコミュニケーションのありかた。そうしたものを、この時代に見合ったものではない仕方で行うことはできないだろうか。そうすることで、たとえ小さなものであったとしても、この時代に楔のようなものを打ち込むことができないか。そういうことに思いを巡らせながら、わたしはこの本を読み終えた。ページネーションというアイデアを武器に、時代や世界と対峙してきたひとの後ろ姿を見つめるようなきもちで、いまも読後を暮らしている。