ポップアップストア的

たとえば海外の古典的な映画作家の特集上映、それも昔では考えられなかったようなたくさんの作品がいっきょに上映されるような特集上映へと通うのが、なんとなく苦手だ。そのデジタル技術を前提とする「便利さ」に、まだきもちがついていかない。もちろんほかの新作や小規模な上映においても、多くの場合そのインフラはデジタルだけれど、古典映画の大規模な特集上映でそうしたメディア環境をよりつよく意識させられるということだと思う。そういう個人的な感覚を、欺瞞的なものだと批判することができる、という理由で手放したくないと思う。そうした違和感のようなものが、どこかでいっけんすると別もののような感覚を手繰りよせ、自分の暮しやしごとのうえ決してちいさくない決断をくだす根拠になることもあるのではないか。


某日。開店作業を済ませて、はたきと掃除機をかけようとするが店内にひとが多く、後回しにすることにする。店員のOさんに近くのコンビニでコーヒーを買ってきてもらってひと息つく。学生時代の友人が本を送ってくれたのを受けとり、査定。映画と臨床心理学についての本が多い。そのあいだも、はたきと掃除機が終わっていないことにすこしそわそわする。レジまで来られるひとは少ないが、すこし前に売っていただいた写真集や画集が何冊か売れて、助かる。売れ筋のタイトルでも、オフラインで売るのにはオンラインで売るときの、おそらく何倍も時間がかかってしまう。場合によっては何百倍もの時間がかかることもあると思う。人が途切れたところではたき、掃除機。夜までひまで、日中に写真集や画集が売れてよかったと、何度も言う。


ずいぶん前のことだけれどSNSで美術家の池田剛介がポストしていたことばを最近よく思い出す。「目新しい新規事業に即時的な衆目が集まる一方で、継続していると続いているのが当たり前のようになっていく。多くのスペースはそこで消えていく。たいして注目されないながらも細々とであれ持続していけるのかが、芸術文化の本当の闘い」。これはおそらく現代美術業界やアーカイヴ事業などを前提として書かれたことだと思う。でも、実店舗で(古)本屋という商いをしている身として、とても身近に感じられるトピックでもある。開店、閉店、なにかふだんとはちがった特別な営業日ようなものはお客さんの注目を浴びるものだけれど、いつもの、週六日の、一日数時間の、ひたすらいつもどおりに古本を棚へ並べるだけの営業はそういうふうにはならない。


つまり、いまオフラインでの小売りは「ポップアップストア的」であることでしか利益があげられない、あげづらい状況にあるのではないか。期間限定でふだんとはちがうものが手に入り、それを手に入れることがなんらかのステータスを形成する。書店などでフェアや展示が催され、そこへ足を運ぶことがとくべつなアティチュードの表明となり得る。あるいはそこまでわかりやすいかたちではなくとも、たとえばSNSの水中書店のアカウントで新入荷の本を紹介することもまたポップアップストア的な振る舞いなのかも知れない。個人的にはそういう状況が、なんとなく健全ではないような気はしている。でもそうした状況を変えるための具体的な手立てがまだ思いつかない。こういう話ができるような同業者の友人も減ってきている。