デニーズ

ここ数日ようやく涼しくなり、秋になったと見せかけて、こちらが油断しているとまた夏の暑さが戻ってきてしまうのではないかなどと疑うことも、もうどうやら必要ないらしい。この夏は、吉祥寺の仲屋むげん堂で買った七分袖のTシャツをほんとうによく着た。黒と緑と青の三着を夏のはじめに買い、それらを着まわしてどうにかした。仲屋むげん堂は高円寺に本店のあるアジアの輸入衣料品の店で、学生のころはよく買いものをしていた。合言葉は「安売りは僕らの誓い」。1978年創業で、月刊の「むげん堂通信」は520号をこえる。なんというか、新しい店ばかりが注目されるなかで、40年以上もひとつの業態でお店をつづけられているのに驚かされる。よく言われることだけれど、お店ははじめるよりもつづけていくことのほうが、ほんとうに難しいのだから。


某日。開店作業を済ませて、すこしゆっくりする。Instagramで見つけた店舗物件が魅力的で、店員と喋りながらあれこれ妄想する。この立地ならこういう本を置こうとか、逆にこの分野は動かないのではないか、とか。三鷹は曇りでお客さんは多くない。すこし前は洋書まつりという催事の準備で忙しく、開店から夕方までろくに手を休めずに作業していた。催事もおわって、いまはすこしゆっくりと余裕をもって考えたり、本を動かすことができる。夏から秋は、店のことを内省して次の手を考える時期でもある。前日に売っていただいた文学や哲学の本を拭き、値段をつけていく。SNSで紹介したい本を分けておいて、そのほかの本の棚出しを店員にお願いする。ひさしぶりに来られたお客さんが高めの詩集を買ってくれて、助かる。


働いていた古本屋の店主が書いた本で思い出すのは、お店は手をかければかけるだけそれがちゃんと結果としてあらわれる、というところだ。古本屋が本を売る仕方はざっくり分けると、店売り、通販、催事のみっつがある。このなかで手をかけるだけ結果がでるその因果関係がはっきりしているのは、昨今においてはむしろ通販と催事のほうではないかと思う(この本が書かれた当時といまでは環境が変化しているということでもある)。店売りは通販や催事に比べ、手をかけたとしてもそれが売り上げという数字に反映される仕方は相対的には不明瞭なのではないか。でもその不明瞭性にこそ、賭けるべきものがある、というのがいまの自分の考えだ。不明瞭性のなかで考え、手を動かしていこうという態度は、どこか滑稽でもあるのだけれど。


昔ばなし。修士論文を書いていたころ、家ではなかなか集中できず、夜中になると近所のデニーズにいき、コーヒーだけを注文して時には朝方まで参照する本を読んだり、文章を書きすすめたりしていた。夜中のデニーズにお客はまばらで、自分がいることで経営的に不利益があったわけではないはずだが、働いていたアルバイトの店員のひとにとっては、「またあいつか」とでも言いたくなるような類の客であったと思う。感情労働という意味ではおおきな負担ではなかったか。これからデニーズを利用して数字的にあのときの埋め合せをすることはできるかも知れないが、むしろそのことは今となってはどうでもよくて、あのときの店員のひとが抱いたかもしれない感情に対し自分はもうなにも償うことはできない、ということをときどき考える。